大阪 と 仏教 の関係について。
大阪はなぜ大阪と言われるようになったのでしょうか。
それには仏教の歴史との深い関わりがありました。
大阪は、かつて、「なにわ」と呼ばれており、
浪速、難波、浪花、浪華という字が使われていました。
なぜなにわと呼ばれていたのかというと、
波が速い意の「なみはや」など諸説あります。
その浪速にあった、今で言う上町台地の北端辺りが
小坂(おさか)と呼ばれていたそうです。
それを、室町時代に仏教を説かれた、
浄土真宗中興の祖と言われる蓮如上人(れんにょしょうにん)
が大坂と名前を変えたのです。
御文章と言われる、蓮如上人の手紙の中に、「大坂」と書かれて
いるのが最古の大坂です。
御文章と言われる手紙には以下のように言われています。
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そもそも、当国摂州東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、
往古よりいかなる約束のありけるにや、
さんぬる明応第五の秋下旬のころより、
かりそめながらこの在所をみそめしより、
すでにかたのごとく一宇の坊舎を建立せしめ、
当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。
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地名が大坂となり、今は大阪城があるその場所には、
蓮如上人のお寺が建てられました。
大坂本願寺と名付けられます。今日石山本願寺という名前で
有名ですが、それは後の時代のことで、当時は大坂本願寺と
言われました。
そのお寺の周りには、町が作られ、寺内町となり、今の大阪
の商売の基礎が築かれました。
鉄壁の防御が築かれ、石山合戦(1570~1580)において
織田信長と10年間も戦い続けました。10年間近畿で足止め
された織田信長は、このおかげで天下統一ができなくなったと
も言われます。本願寺の勢力は、石山合戦の後に、退去させら
れました。
江戸時代は大坂という地名が続きましたが、大阪という地名も
使用されていました。
明治維新の前後に大久保利通によって、首都を大阪にする案も
出されていたようですが、これは実現しませんでした。
明治元年(1868)に大阪府が設置され、
明治八年(1875)8月の公文書から「大阪」になったと
言われます。
坂から阪に変わった理由としては、「坂」の字が、
土に反る(かえる)と読め、縁起が悪いとされたことや、
士に反る(かえる)とも読めますので、武士の世に戻ることを
暗示しているともとれるので、それを嫌ってのこととも言われ
ています。
大阪 の地名には 仏教 との深い関わりがあるということが
よく分かります。